♯20
喧嘩と愛情がつないだお饅頭
渡辺祐慶さん/渡辺久子さん
かみのやま温泉のお土産と言えば、中條饅頭を挙げる人は多い。ふっくらしっとり、程良い甘さのお饅頭はもう一度食べたくなる美味しさだ。6代続いてきた背景には、改革と喧嘩の歴史がある。
時代の変化を乗り越えて
創業は1862(文久2)年。新潟県の旧中条町(現胎内市)が初代善蔵の出身地で、当時下級武士だった初代はその後米沢を経て、40代の頃に上山に移り住んだと聞いています。その後、食いっぱぐれないようにと駄菓子屋を開業したのが、中條屋の始まりです。2代目までは駄菓子屋で、一時休業に追い込まれ、3代目の善助が饅頭で立て直し、4代目の祖父(治助さん)の代になって饅頭一本に絞って今の形になりました。
戦後に現在の中條饅頭を開発し、住み込みの従業員もたくさん雇っていて、農家の奥さんたちが冬に働きに来ていました。餡を包むのも包装も手作業。今思えば機械に負けないくらい早かった。それでも当時は手包みでは追いつかないくらいの売れ行きだったので、5代目の父(現会長)が包餡機の導入を提案してね。でも「機械では美味しい饅頭はできない」って4代目が猛反対して喧嘩になって。頑固だからね、昔の人って。でも機械に変える時、同じ材料を入れても同じ饅頭にはならなかった。手の温もりっていうのかな。今の会長は、そこも苦労したみたい。手作りの時と同じ味になるようにと研究してきたそうです。
私は長女で、饅頭で育ててもらったんだから跡を継ぐことは当たり前だと思っていた。今の社長(夫)は高校の時の先輩で、卒業して数年後に再会して私が無理やり連れてきたんだけど、父は職人気質だし、普通に教えてはくれないしで、やっぱり喧嘩してたね(笑)。
会社員から饅頭屋へ婿入り
社長(祐慶さん)
以前は会社員だったので右も左もわからないまま跡を継ぐことになって。先代からは「見て覚えろ」という感じで一切教えてもらえなかった。昔の人は目分量で作ってたから。気候によって水分量や練り時間を毎日変えてるからね。レシピ通りに作っても同じ味にならない。でも、やると決めたんだから頑張るしかないと思ってがむしゃらに覚えたね。
最近はコロナ禍で大変だったけど、その前もバブルが崩壊して、競馬場も閉鎖して、売り上げの減少を実感していました。店舗と旅館の卸だけでやっていたので、スーパーへの販路拡大を提案したら会長から猛反対があってね。そこからどうにか店舗に足を運んでもらえる方法を考えて、ソフトクリームの販売を始めました。普通のじゃなくて、饅頭の材料を使った和のソフトクリーム。他にも天ぷら饅頭とか、果物大福、あんころ餅など新商品を開発しましたが、いずれも饅頭の素材を使ってる。時代に合わせて変えていくことも必要。でもやっぱり饅頭屋だから他にキッカケを作っても、「美味しい饅頭をお客様に食べてもらう」ということは絶対守っていかなければならない。
とにかく中條屋は和菓子屋である以前に饅頭屋なので、饅頭で他のお菓子屋さんに負けるわけには絶対にいきません。日々研究し、努力していかないと。饅頭は代々受け継がれてきた大事な宝物ですから、何があっても守らなければならない。かっこいいこと言うようだけど、餡と一緒にまごころを込めて包んでいます。
家族仲良く、饅頭で上山を盛り上げたい
続けていくことは大変だけど、お客さんに褒められることが嬉しい。リピーターさんもいっぱいいる。地元の人も使ってくれたり、上山からお嫁に出た方からも送ってくださいと言われるし。子どもたちのファンも多いのよ。ケーキよりお饅頭!って言って。昔に比べたら上山もだいぶ寂しくなっちゃったけど饅頭で上山盛り上げていきたいね。
跡を継ぐために息子夫婦が戻ってきてくれたのも嬉しい。今は3人の子育て中だけど、最近はお嫁さんが手伝ってくれるようになったから私もこうやって座って話していられる。彼女はやる気満々で店のPRを頑張ってくれています。でも大地(専務)と社長はよく喧嘩してたよ。饅頭ぶん投げて大地が店を出ていって、私が迎えにいったこともあります。やっぱり親子だね(笑)。一生懸命になればなるほど考えが食い違っちゃうからね。昔は会長と夫人も饅頭投げて喧嘩してたって(笑)。今はみんな大人になって上手に収まってます。基本的には家族仲良く。お客様もそういう空気感じるべし。饅頭とおんなじでほんわかしてます。
饅頭という一つの小さなお菓子が、時代が変化しても家族をつなぎ、支えてきた。店内の壁には「当たり前という奇跡に感謝」という社長の手書きの張り紙がある。自身で考えたのかと思いきや「何かから盗んだ言葉だ」と笑う社長。続けていくことは何より難しい。当たり前の毎日の先にある饅頭屋の今の光景は、やはり奇跡なのかもしれない。