
♯21
ずぐだれ息子の成長記録
細谷隼人さん
宴庭はやと店主。料理人の顔以外にも、フジテレビ「あいのり」出演、ケーブルテレビ山形のリポーターとして活躍していた異色の経歴を持つ。やんちゃしていた若い頃から様々な経験を積み、今ではすっかり優しいお父ちゃん。
あの、あいのりの隼人です
若い時結婚して、離婚して、あいのり行って上山に帰ってきました(笑)。離婚した後、恋愛もなかなか上手くいかなかった時、テレビ見たらなんかおもしゃそうなことやってるなって。ノリで履歴書書いて出したのがきっかけです。書類選考受かって、東北地区のオーディションも通りました。フジテレビで最終面接後、プロデューサーさんと酒飲みながらの居酒屋オーディションみたいなのもあって。その1ヶ月後くらいに電話かかってきて、「1週間後に行けますか」って。それが25歳くらいの時ですね。
睡眠2時間でもやりたいことをやる
あいのりから帰ってきて上山市から何か仕事もらえないかなと思ってたけど、特に何のオファーもなかった。バイクとか乗ってやんちゃしてたイメージがあるんでしょうね。若い時はずぐだれ(バカ)息子だったから(笑)。そしたら山形のケーブルテレビの社長が声かけてくれて、「アナウンサーみたいなのやってみだらいいんでねかよ~」って。11年くらいお世話になったっすかね。お店のリポーターしたり、舞台もして、ケーブルテレビの番組の中で「隼人組」っていう若い人の力で何かやるべみたいな企画もやらせてもらった。当時はあまりなかったマルシェやってみたり。社長はおもしゃくて面倒見のいいあんつぁ(兄貴分)だったから。当時は自分の店もやってたし、友達のバーとかも手伝って、遊ぶ時間も惜しまなかったから平均睡眠時間は2時間くらいだった(笑)。
遅れてやってきた成長期
あいのりに行ってなかったら、おかしな方向に行ってたかも知んないです。ケーブルさんにお世話になったことも自分にとって大事な経験でしたね。何かおかしな新聞沙汰を起こしてしまったら、親もそうだし会社の人に迷惑かけるっていう責任感が生まれたんですよね。人さ会ってもニコニコして挨拶すると自分も相手も気持ちいいんだなとか、本当に些細なことに気づかせてもらった。遅いですけど、25~30歳くらいまで当たり前のこと当たり前に教えてもらえて、人生で一番成長した時期ですね。
「僕の夢」は現実に
料理の道に進んだのは父が寿司屋をやっていたので自然な流れっすね。上山の寿司屋といえば十日町の弁天寿司と言われるほどの店だった。かみのやま競馬場があった時って、活気あったんすよ。馬が勝つと厩舎の人から「寿司持ってこい!」って。寿司屋だけじゃなく上山中が湧いてました。寿司屋で手伝いしてると下駄の音が聞こえてくるんですよ。カランコロンカランコロンって。そんな時代を過ごしてきて、上山に残っていくっていうのはあったんじゃないかな。
小学校5年生くらいの時に地元の新聞社が来て、「僕の夢」っていうコーナーに出たのよ。「僕は大きくなったらお寿司屋さんになる」って書いたことを今でも覚えています。弁天寿司は借家だったので、今の店を中古で買い、リフォームして2017年に父と「宴庭はやと」をオープンしました。一緒にやることになったのは、母ちゃんが病気になっちゃって、「2人で仕事してる姿見ないと死ねない」って言われて。親父も70歳になって引退したので、今は妻に手伝ってもらいながら自由気ままにやってます。
俺は俺だから、俺でいいは~
子どもの頃、店が忙し過ぎてどこにも遊びに連れて行ってもらえなかった。今、自分の娘が9歳になるんですけど、反面教師で、俺がやってきてもらったことの何倍も娘にしてやりたい、いっぱい遊んでやりたいって思います。営業中も店で一緒に過ごしてて、たまに手伝いをしてくれることもあります。中学くらいになると娘の方から離れていくと思うので今を大切にしたいっすね。
これまで先を見過ぎて来たっていうのもあるので、今後の展望とかはないですが、1日1日を大事にして、来てくれているお客さんに感謝しながら笑顔で美味しいものを出すことを心がけてます。お世話になった社長さんとかバンバンやってるのは見てるけど俺は俺だから。「俺でいいは~」って感じかな。背伸びしないでやれることを精一杯やってる感じですかね。
宴庭はやとは、現在隼人さん一人で料理を作っており、完全予約制。上山や山形の旬の食材や、気仙沼や庄内で獲れた魚介類などを使った創作和食は山形市内や県外からのお客様も多い。お酒好きが高じて、店内に並べられたお酒の種類は上山いちだという。重厚な扉を開けると、あいのり時代に話題となった強めの訛りと、ワイルドな笑顔に会うことができる。