♯17
上山の風景を作った努力神
橋本利幸さん
葉山温泉の旅館・はたごの心橋本屋の会長。上山のお湯を巡る争いは絶えなかったが、葉山温泉と新湯の長年にわたるお湯取り合戦を終息させた。新幹線開通時に売り出した体験型ツアー「花紀行」を大成功に導いた一人。
3回掘ってやっと出たお湯
葉山温泉が開湯するまでにえらい時間かかってんのよ。昭和10年くらいに高松温泉を最初に掘ったのがうちのじいちゃん。でも、お湯がぬるくて別のところをまた掘って。そして掘る資金もなくなったから政治力を使わないとダメだってことで、県の代議士に協力してもらって、葉山温泉を掘り当てた。うちの親父が上総掘り(かずさぼり)で掘ったのよ。でも大東亜戦争が始まってしまって、やっと終戦の年、昭和23年の旧暦5月5日に1個目の露天風呂ができた。でも、これだけのお湯を出すには動力(ポンプ)を使わなければいけない。それでお湯の引っ張り合いになった。葉山と新湯で揉めていたのがそういうこと。ずっと水と油の関係。で、俺たちの時代から葉山と新湯が仲良くしようってことで、まとまって温泉を掘って集中管理したから、今は安定した温泉になってる。
葉山の風景を作った橋本一族
橋本屋は道もないところに家を作って、2部屋の旅館から始まった。葉山温泉を盛り上げるために、親父の兄弟に土地を与えたんだ。長女が蕎麦屋、2番目が旅館。3番目がパーマ屋。それから鳥屋。パチンコ屋もあった。弟がやっているラーメン屋はもともと団子屋さんだし。このあたりは昔、夜の街だった。飲み屋街を作って、10軒近く店があった。たくさん置屋もあって賑わっていた。
東京から戻って見えた葉山の現実
高校の先生から、親が旅館やってんのに遊んでばっかりじゃダメだべって。俺が世話すっから大学さ行けって言われて東京の大学に行って。卒業後は東京オリンピックの開催で盛り上がっていた頃で、山形県の東京事務所の観光課で3年くらい働いてから上山に帰ってきたんだけど、当時の橋本屋はひどいもんだった。葉山と新湯がごたごたしている時で。それで葉山館の前社長と若い世代でいろんなことを始めた。あの頃は若くてね、葉山の青年部、県の青年部って作ったのが俺たちの代。芸者さんに踊ってもらって盆踊り大会も始めたし。駐車場のところで菊花展をやったりね。子供会も作ったな。
救世主現る
俺たちが一番教えられたのはJRの見並(みなみ)さんっていう人。その頃JRが観光に乗り出して大々的にやり始めた頃で、大きな旅館だけじゃなく、うちみたいな小さな旅館にも目を向けてもらいたかった。それで見並さんには泥臭さが欲しいって言われて、レンタサイクルとか、そり遊びとか、藁靴履かせて雪で遊ばせたりっていうのを提案された。上山はクアオルトで有名になったけど、それも見並さんの構想だった。その話を聞いて、みんなで山歩きしていた時に、葉山の眺めがいいねってなって、うちの山を提供したの。金がなかったから、製材屋に木をタダであげるから木を切ってくれないかって頼んで伐採して、そこに桜の木を100本植えて観光客が散歩ができる花咲山を作ったの。
遊び歩いていた高校時代、先生に大学進学を勧められた時に、橋本さんが自分を変えようと彫刻刀で掘った碑が、花咲山の頂上に鎮座しています。そこには「努力」と刻まれており、いつしか努力の神様として拝まれ、隠れた名所になっています。あまり自分が何をやったと語らなかった橋本さんですが、その功績はしっかりと上山の歴史に刻まれています。