♯10
お湯をめぐる歴史の先に
堺健一郎さん
仙渓園月岡ホテル会長。かみのやま温泉の歴史を見つめ、長年新湯温泉街を支えてきた。とても気さくで、現在も玄関でお客様のお迎えや早朝ウォーキングを主催している。月岡ホテルは、上山城の外濠跡に建てられており、庭園には当時の外濠跡の佇まいを見ることができる。
新しいお湯を求めて
上山には、湯町、新湯、十日町、河崎、高松、葉山に温泉があり、総称して「かみのやま温泉郷」と呼ばれています。温泉が湧き出た時期も違って、それぞれに特色があるんです。湯町地区が最も古くて長禄2年(1458年)に開湯しました。新湯地区は大正11年に約10軒の旅館からスタートしたそうです。新湯の昔の写真を見ると塀とかがあって高級料亭街みたいな佇まいがありましたよ。ただ、新湯と湯町は、お湯の関係でいろいろありました。もともと、湯町にある旅館「月の池」さんの前に源泉が自噴していたんですが、新湯でお湯を掘ったことで自噴が止まっちゃったんです。我田引水じゃないけど、お湯でも同じことが起こる。しかしながら、何で手を打ったのかな~。仲は悪くない、あんまり引きずってないみたいなんです。その後大正15年頃には旅館組合も結成されました。
お湯の引っ張り合戦勃発
でも、戦後に葉山地区でお湯を掘り当てると、今度は葉山地区と仲が悪くなります。新湯の例があったので掘るのは反対されていた。でも科学的根拠はないと押し切られて掘ったら、案の定またお湯が減ったわけです。それぞれポンプの馬力アップして、お湯の引っ張り合戦が起きてしまった。だから葉山とは仲が悪くて何十年といがみ合っていました。それがバブルの崩壊で、それぞれひっ迫してきて、仲が悪いなんて言っていられなくなってきた。一行政区間に旅館組合が2つあるのもまずいから、一緒になる段取りを組んでいこうと。それで3年くらいかけて一緒になったんです。
一緒に乗り越えたバブル崩壊
バブルの崩壊で団体需要が減り、個人利用が増えたので、団体客に強かった上山はかなり打撃を受けました。旅館件数もだいぶ減りましたね。でも、みんなが協力するようになって、イベントも盛んに開催されるようになりました。「ゆかたの似合う町づくり」を掲げてみたり、上山城の周りを整備するために、城下町再生志士隊という市民団体を結成したり。宿泊客と一緒に山を1時間くらい歩く「西山早朝ウォーキング」も始めました。季節の顔があるからか、ずっとやっていても飽きないんですね。2週間くらいで風景が変わります。この辺の山にはヒメサユリなんかも咲きますしね、リスやカモシカに会うこともありますよ。
地元も観光客も楽しむ山形ワインバル
山形ワインバルは「自分の土地を知る、この土地に誇りを持とう」ということから始まったんです。きっかけは、旅館の全国大会で山梨に行った時、上山のぶどうを使っているサントリーとサントネージュのワイナリーを見学させてもらったこと。上山のぶどうを山梨に持って行って、ワインにして、また上山に帰ってくる。「山梨はぶどうの一大産地なのに、何でわざわざ上山なのか」と聞いたら「運ぶ価値のあるぶどうが上山でできるんです」と言われて。「運ぶ価値のある土地のぶどうなんだ!」と、みんな驚きました。上山のぶどうは醸造用に選ばれるもの。それを市民が認識しなきゃならないということで、1年目はワインの勉強会、2年目から山形ワインバルという形で開催しました。当初出店したワイナリーは10社だったんですが、それが今は30社になりました。山形ワインバルは地元のみんなが楽しみながら手伝ってくれるんです。「自分のまちが素晴らしいんだ」って、みんなで知ろうよ、みんなに広めようよってとこから始まったのが良かったんでしょうね。
有名旅館も多いかみのやま温泉だが、古い歴史の裏側にはお湯をめぐる争いが耐えなかった。それは、時間をかけながらそれぞれの存在を認めて手を取り合っていった歴史でもあるのだ。「若い連中はとにかく酒飲みばっかりしてる」と笑って話してくれたが、その空気を作ったのは、まぎれもなく堺会長の代なのだろう。