上山ラプソディ

かかしを上山のシンボルに!

♯3

かかしを上山のシンボルに!

佐藤幸子さん

日本の宿古窯副社長。ゼロから古窯を発展させてきた初代経営者である。上山を代表する「全国かかし祭」は自身の旅館だけでなく、上山全体を盛り上げたいという元上山観光協会長で古窯の会長・佐藤信二の想いで始まった。

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上山の老舗旅館、日本の宿古窯を知らない人は県内にはまずいないだろう。県内のみならず、国内での知名度も高い。「お・も・て・な・し」の真髄は古窯にあるのではないかと思うほど、館内やサービスの端々に気遣いが散りばめられている。昭和26年の創業時、副社長は弱冠二十歳。水も出ない、電気もこの宿まで、電話も引かれていない不便な土地を義理の母から与えられ、本当にゼロから旅館を大きくしてきた。後にその体験を綴ったエッセイが出版され、NHK連続テレビ小説や帝国劇場で舞台化もされている。かかしが上山のシンボルとなり定着した背景には、副社長と亡き会長のマイナスをプラスに変えてしまう思考力と実行力があった。

そんなの無くなるに決まってるじゃないか

観光地として、天童には将棋駒があるのに上山には何も無い。そんなことを考えていた時、主人が上山の農業高等学校の学芸祭でかかしコンクールをやっていたのを見つけました。でも、来年から予算がないからやめちゃうって。これは上山のシンボルになるのではと考えていた時に、ちょうど花登筺先生が“細うで繁盛記”という小説を書くために旅館に滞在されていました。それで、先生に“かかし”をどう思われるか聞いてみたら「そんなの無くなるに決まってる。それなら僕が手伝ってやろう」と言って、かかし音頭を無料で書いてくださった。でも、地元はみんな反対。かかしで人が来るはずはないと言われ。でも当時の市長だけが絶対やりなさいって全面的に応援してくれました。

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400万円の小切手を握りしめて

歌詞は出来たものの、予算がないから村の青年団の声のいい人に歌わせようと思っていたら、花登先生が三波春夫先生に歌ってもらうとおっしゃって…。秘書の方に「いくら位するものですか?」って聞いたら「400万(※1)くらい」って。小切手持って行くしかないって、実印握りしめて三波先生のところへ行ったら、花登先生からの依頼だから80万円(※1)でいいよと言ってくださいました。でも「一軒の旅館が全部払うことは無い、寄付が集まったら持っていらっしゃい」って。その後すぐに上山に戻って市長のところへ行き、完成したテープをお渡ししましたが、入院されていたため奥様に渡しました。その後まもなく亡くなってしまい…。市長の遺影の前にはかかし音頭のテープが供えてありました。生前ベッドに正座して聞いて、涙をポロポロこぼして泣いてたそうです。

※1 当時の金額

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地元がだめなら東京から!

市長の想いもありますし、歌が出来た以上成功させなければなりません。花登筺先生の所に何辺も通って、宣伝する方法を聞いて、小川宏のモーニングショーに20分くらい出してもらいました。本番の9月には日本テレビが撮影に来てくれることになりました。でも、当時は地元からの批判ばかりで相手にされなかった。かかしが20〜30体だけでは笑いものになると思って、毎日青年団に相談に行きました。そこで胴体を作る竹に2,000円を付けて配るという名案が生まれました。農家は真面目な方が多いから、対価を支払えば真剣にやってくれる。なんとか350体が揃うと分かった時にはホッとしました。結果、第1回目は400体近く出たんです。押すな押すなの大盛況でした。テレビに度々取り上げられるので、今まで批判していた人も関わらずにいられなくなりました。

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みなさんのおかげで出来たこと

あれから50年経って、記念の冊子を作り、寄贈し、上山市観光物産協会が市内に配布してくれた。天の上で主人も喜んでますよ。でも、あのくらい大々的になると私たちがやったって言えません。最初だけはやりましたけど、継続してくださっている方のおかげです。だから冊子にも極力古窯の名前は出さずに、個人の名前だけ掲載していただきました。今は葉山舘の社長が引き継いでやってくれていますし、皆さんのおかげでここまで盛大になりました。後々まで続けてもらえたら嬉しく思います。

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